幼い頃から議論が好きだった。きっかけは小学六年のときのクラスメート森田君とのやりとりだ。「世紀末の詩」という当時(1998年)放送されていたテレビドラマに影響された僕が、ある日の授業中に後ろの席の森田君に「愛とは何か?」と書いた紙を渡した。そんな僕の唐突な問いに思いのほかのってきた森田君との手紙のやりとりは十往復以上続いた。
具体的な内容は忘れてしまったけれど夢想を語る僕に対し、森田君は「笑止」という僕の知らない熟語を用いて現実主義的な立場をとっていた。相手の考えが自分と異なることが表面化した際の手持ちの対処法が「無視」か「喧嘩」くらいしかなかった僕にとって、その手紙のやりとりはとても新鮮でワクワクしたのを覚えている。
初めは森田君に僕の考えを理解して欲しいという思いが強かったが、手紙のやりとりを進めていく中で、自分の考えを整理する方に重点が移っていった。すると「僕はこんなことを考えていたのか」と自らの内に芽生えた未知の思考を発見した。そこで僕は議論をする楽しさに目覚めたのだと思う。
今にして思えばテーマが良かった。「愛とは何か」という問いは、十二歳の僕らにも「正解などない」ということが理解できるくらい漠然としていた。正解などない。二十五年経った今でもこの意識をわりと大事にしている。
最近では歌会などで人の歌を批評する際に強く意識する。一首一首の歌についてああでもないこうでもないと皆で話し合うことは、実は愛について語ることくらい途方もないことではないだろうか。
もちろん表現技法上の一定の正解はある。比喩や倒置などの技法が効果的に用いられているか、文法として誤っていないかの検証は不可欠だ。しかし、表現技法を研ぎ澄ました先に歌としての正解があるわけではない。さらにいえば、その歌の作者が正解を決めるわけでもない。大事なのは、批評者が批評者自身の正解を探し求める姿勢であり、その過程で上手くいけば未知の思考に出会うことができる。そこに批評という行為の醍醐味があり、そのようにして批評は自分に返ってくるものだと思う。
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